フラクタル最終話まで見たぞっと

いやあ、見事にヤマカン制作陣にやられたなぁ。見終わってここまで清々しかったのも久々だ。
  
終わってみればですが、この作品のギミックの最たるものって、最初にフラクタルシステムを敵視させることにあると思うんですよ。で中盤にかけて疑問を抱かせておいて最後にフラクタルシステムの再起動が果たされる形で先入観が見事にひっくり返される。フラクタル自体はあってはならないものではない、と。言ってしまえば技術(科学だっけ)の中立論。
  
僧院やフラクタルに縛られない人生を幸せに感じる人もいるし、仮想世界の中で生きることを幸せとする人もいる。何をしたらいい人生だったと言えるかなんて、誰にも分かったものじゃない。自分の生き方を誰かに押しつけて良いものじゃない。この物語は「たった1つの結末」を追い求めるフィクションへの、強烈なアンチテーゼだったんじゃなかろうか。かくしてクレインはフリュネとネッサを守り抜き、フラクタルの人々の安寧は保たれ、ロストミレニアム達は自らの「人間としての信念」を失うことなくその生を紡いでいく。そしてディアスと祭司長は互いの傷を舐めあったのでありました。血こそ流れども誰の魂も死ななかった、これが見終わった後のすっきりした感じのもう1つの理由でしょうね。(1つは監督制作陣にまんまとハメられたことw)
  
たった1つの生き方しか許容できないほど、この世界は狭くない。様々な生き方を許容できる自由が・・・あれ、「自由」と言えばまさに1話から、世界設定から提示されてきたテーマじゃないか。それが最終話でメタな形で戻ってきた。ここまでフラクタルになっていたとは・・・いやはや脱帽。
周りの評判がアレでナニですが、そんなわけで私は推しますよ。
  
あー、あとフリュネに思いが届いて良かったね、クレイン。(意訳:君届の告白回見逃したぜどうしてくれる

(8:24 本作が山本寛監督一人の作品のように見える表現を訂正)